待っていた花が咲いたよ 2024/5/1 水

戦争へ行った父から聞いた話 その2 帰郷

 終戦までの半年間だけ戦争へ行った父の語った話 その2は終戦で函館に帰ってきた時の話です。

帰郷
 戦争が終わって千葉県から函館に戻ってくる際に見た青森市は焼け野原で瓦礫の山でした。函館もそうなんだろうと思って連絡船を降りて驚いたのが街の被害の少なさだったそうです。

 青森と函館は昭和20年7月14日、15日に艦載機からのグラマンによる攻撃を受けて青函連絡船12隻中10隻が沈没、座礁炎上し残る2隻も損傷した他、多数の船が沈没・損傷して旅客、乗組員合わせて死者行方不明者425名、負傷者72名という被害を受けています。
 函館は横津岳から函館山へ向けて飛来したグラマンが機銃掃射と爆弾で市街地を攻撃、79名が命を落としています。母の話では動いている人は低空で飛ぶ飛行機から機銃で狙われ投下された爆弾の爆発と火災で命や家を失くしたそうです。今は解体された当時の小学校には機銃の弾痕が壁に残っていたようです。繁華街の交差点の真ん中に大型の爆弾が落とされて大きな穴ができていたそうです。

 函館に比べて青森市街の被害が甚大だったのは青森市は7月28日にB-29による大空襲を受けたからです。なぜ函館は大空襲を受けなかったのかは分かりませんが両親の話ではこの時期函館は雲がかかることが多くて標的となる街が見えなかったからじゃないかということでした。

 とにかく父は無事に帰ってきて祖母はとても喜んだことでしょう。この時代の函館の人々は昭和9年の函館大火、昭和20年の空襲、昭和29年の洞爺丸台風とほぼ10年ごとに稀有かつ大変な経験をしていたのですね。



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